自己は他者によってつくられる 阿部潔『彷徨えるナショナリズム』より

「自己」は、どのようにして成立するのだろうか。日常的な感覚に照らして考えれば、「自己=わたし」は常に既に当たり前の存在として「ある」。「わたし」の存在が曖昧になったり、その実感か持たれないような状態は、端的に「病理」と看做されてしまう。逆にいえば「わたし」が確固たるものとして存在することは、ごくごく当たり前で正常な事態と受けとめられているのだ。

 だが、これまでに心理学、精神分析理論、コミュニケーション論などが明らかにしてきたように、「自己」は必ずしも先験的(ア・プリオリ)に与えられるものではない。私たちは、この世に生を授かった瞬間から「自己」を持っているわけではないのだ。生まれ落ちて以降、すぐさま始められる親をはじめとした周囲の大人とのやり取りを通じて、赤子は「子ども」へと成長していく。その意味で、「社会」との関わりのなかではじめて、私たちは「自己」を獲得していくといえる。

 こうした「自己」の生成過程において、「他者」が重要な位置を占めている。プラグマティズムの立場から自我やコミュニケーションについて論じたジョージ・ハーバード・ミードが指摘したように、「他者の態度取得(taking the attitude of other)」を通じて私たちは自我を形成し相手とコミュニケーションを図ることが可能となる。相手の視座/立場から「わたし」を捉えるようになってはじめて、「わたし」は自分自身=「自己」を感じ取ることができるのである。ミードは、こうした「態度取得」の高度化/多様化のプロセスとして、子どもの成長過程を捉えた。

 私たちは成長するにつれ、さまざまに異なる相手の態度を巧みに取得していきながら、相手との相互行為を首尾よく調整していく能力を身に付ける。ミードの言葉を借りれば、社会的に成長していくことで、特定の「重要な他者(significant others)」から不特定の「一般化された他者(generalized others)」へと態度取得の範囲が広がっていくのである。そのことによって、人々はヨリ高度な「社会性」を獲得する。他者の態度を予め取得することで、私は相手からの期待を予期し、それに合致した行為を取ることができる。また、相手も私の態度を取得することで、私が相手に何を期待しているかを予期できる。こうして相互に期待/予期の交わし合いができるからこそ、私たちは社会的な規範を作り上げ、互いにそれを内面化し、さらに具体的な場面で実践していけるのである。